スキデルスキー親子による『じゅうぶん豊かで、貧しい社会:理念なき資本主義の末路』、原題はHow much is enough?だ。原題も訳題もキャッチーで良い。ただ、読了後にキーワードとして残るのは「よく生きる」と「倫理」であり、その両方が出てこないのは残念だ。
実はタイトルを見たとき「成長志向はダメだ。このままだと世界は破滅の一途を辿る。豊かで貧しく生きるのではなく、貧しく豊かに生きよう」というような本かと思ったが、そう単純な主張でもなかった。
成長を肯定したり否定したりするというよりは、何を目指した成長かという価値の問題を先にすべきで、それがないと成長の成否を問うこと自体ができない、という話だと理解した。
効用は純粋に記述的な概念であり、欲しいものについて語るが、欲しがるべきものについては語らない。
これは当たり前のような感じがするし、「人によって価値は違う」と多様性の受容こそが豊かな社会として描く際には「べき」論は忌避されがちだ。ただ、著者は個人それぞれにとってよいことだけではなく、(社会にとって)よきものの実現を志向しているようだ。
欲しがるべきもの、よきものという倫理の話を積極的に打ち出そうという展開はおもしろい。さらに、著者らがいう価値が「幸福」ではないことが示される。このために、いろいろな議論が登場するが僕が一番おもしろかったのは次の文だ。
人が心で感じた幸福が、それ自体として必ずしも善でないことはあきらかだ。それ自体として善であるのは、幸福になるべきときとき、あるいはすくなくとも、幸福になるべきでないとは言えないときだけだ。
GDPに替わりGDHを追求しようという話はよく聞くが著者らはこの立場を採らない。
さらに、自然との関係を「人間が活用する資源」とみなす(シャロー派)のでもなく、「人間にとっての有用性とは無関係に、自然それ自体を価値あるもの」とみなす(ディープ派)でもない立場を表明する。著者らが示すのはその間を採ったもので「グッドライフ環境保護主義」として示される。
自然の価値として、人間の尺度によるものと本質的なものを両立させるもう一つの方法は、自然との調和はよい暮らしの一要素であると考えることだ。
環境に配慮した生き方を求めはするが、それは自然のためでもなければ、将来世代のためでもなく、私たち自身のためである。
自然との調和というのは、里地里山に関する議論と繋がることがありそうだ。持続可能性とか将来世代のためとかいう考えに距離を置いているのも興味深い。
さて、こうした議論を経て、ではよい暮らしとは何かという考えが「基本的価値(basic goods)」として示される。これが可能になるのは「倫理観のちがいはたしかに存在するにしても、大方の人が思うほど多岐にはわたっていない」という現実的な判断(前提)を持つからだ。
基本的価値の選択基準は「普遍的価値」「最終価値」「独立した価値」「なくてはならないもの」の4つであり、これらを満たして提示されるのが次の7つだ。
- 健康
- 安定
- 尊敬
- 人格または自己の確立
- 自然との調和
- 友情
- 余暇
著者らが「この種のリストはそもそも正確にはなり得ない」と述べているとおり、議論を呼びそうな案の提示だ。
終章では「おおざっぱな提案」として政策提言のようなこともなされている。ただ、これは、ワークシェアリング、支出税(消費税)の累進課税化、ベーシックインカム等であり、目新しさはない。下手に政策論をするよりもむしろ、次の姿勢の表明で十分だったのではないだろうか。
すでに「十分」になった社会における市民生活はどのようなものかを考えなければならない。その結果私たちは、貧困を前提とする既存の経済政策とは正反対の策を支持するに至った。