龍谷大学社会科学研究所の2018年度第1回月例会として、映画上映会&パネルディスカッション『リタの恋は国境を越えて―東ドイツ映画が描く人の移動と共生社会の変容―』を開催しました。上映作品は「引き裂かれた空」(1964年、監督:コンラート・ヴォルフ、原作:クリスタ・ヴォルフ)です。

本会は共同研究「共生社会・共生経済の構築に向けた研究と実践」プロジェクト(代表:笠井賢紀)によるものです。

ドイツからいらしたMriko Wirmann氏(ドイツキネマテーク専属研究員)による映画の背景や現在の受け止められ方に関する解説、同作が難解である背景への言及もあり、同作の見方が広まりました。

また、法政大学名誉教授の山根恵子先生(同作の字幕も担当)は通訳を務めてくださっただけではなく、字幕制作におけるさまざまな話題もご提供くださいました。

主催者である私たちの共同研究からは、松本章伸さん(ディレクター)に映像の専門家としてパネリストになってもらいました。このおかげで、ドイツ映画という文脈に留まらずさらに深い議論が展開できました。

学内者を中心として50名の来場者にお越しいただきました。フロアからの質問も相次ぎ、時間を超過しての熱いディスカッションが交わされました(その関係で最後まで参加できなかった皆様には申し訳ありませんでした)。

私は主催プロジェクトの研究代表として閉会の挨拶を行いました。その中で、次のようなことを話しました。

今回の映画から、分離・分裂や閉塞感の描写を取り上げ「この時代は共生社会では無かった」という一般的なまとめもできるかもしれない。だが、それは「共生」を無前提に良いもの(理想像)として捉えてはいないか。「共生」は常に他者の存在を必要とする概念で有り、「他者と共に生きられる」ことだけではなく、私たちが引き受ける「他者と共に生きざるを得ない」状況をも指している。

さて、本作がリタの成長譚であることや、本作における時間軸の複雑な交錯について、ヴィアマンさんや山根先生から解説があった。そのことを踏まえると、本作はリタにおける複数のリタの共生の物語とも読める。作中で善悪や正しい・正しくないの二元論へのリタの批判的なセリフもあるし、松本さんが「曖昧さを受け入れる」ことについて示唆を下さった。リタも私たちも、人生を語るときに時間や考えが交錯することはむしろ当たり前だし、それでもなお、一人の人生を歩んでいる。(他者との共生同様、複数の自己観との共生もまた、共に生きざるを得ない状況下にある。)

そして、リタの人生(あるいは成長譚)は、リタが生きる社会とは無縁ではない。リタの人生には「社会が埋め込まれている」という観点からは、ヴィアマンさんや山根先生が解説されたような、当時のドイツに関する理解を要するし、あるいは逆に、リタの人生から当時のドイツについて知ることもある。

パネルディスカッションでは字幕に関する議論が多かった。字幕という翻訳の作業は、字句を日本語に(辞書的に)直していくという作業であるだけではなく、作品を理解するために文化・生活の異なる対象へとそれが伝わる工夫が不可欠だ。そうした点では、日本においても他者の人生史を理解しようとするとき、常に「翻訳」が不可欠である。今日の会で広い意味での「翻訳」も重要な、よりよい共生のための作法であると学ばされた。

参加者の感想の中には、パネルディスカッションを経ても依然として難解であったことや、本会のタイトル・副題(共生社会など)に関するディスカッションが聞きたかったとの声もあり、いずれも主催者としてもう少し工夫ができたかと反省しております。

そうした感想に触れると、今回は事務方に徹しましたが、ドイツも映画も専門ではない私自身が敢えて登壇してパネルに加わらせてもらうのも手だったかもしれません。

ご来場くださった皆様、ヴィアマンさん、山根先生、ありがとうございます。

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