井手英策ほか『分断社会を終わらせる』

井手英策さんの本を読んでみるといいと学生時代の師に言われて何冊か読んでみている。今回読んだ『分断社会を終わらせる』のほか、『経済の時代の終焉』『18歳からの格差論』といったような本も手元にはある。

共生社会を考える上で、「分断社会」という現状認識とその社会へのアプローチを学ぶ必要があるので、確かに読むべき本だった。先日読んだ『社会的分断を越境する』やはり社会の分断と、それを乗り越えるための方途がテーマだった。

本書では財政学の視点から、分断社会をどう乗り越えるかが論じられる。


全編を通じてデータをグラフや表を用いて示しながら議論が展開される。分断状況の確認や、それを生みだしてきた背景などに触れた後、著者らの政策提言と想定問答が展開されるバランスの取れた構成だ。

財政学は門外漢で、専門的に著者らの主張がどこまで妥当なのかは実はよくわからないけれども、主張は興味深かった。

いわゆる市場原理に対抗する理念として、「必要原理」を打ち出す。この国で形成されてきた「成長=経済型モデル」を「必要=共存型モデル」へと転換し、「救済型再分配」を「共存型再分配」に置き換えていくことの重要性

とあるように、経済的成長がなくてはならないという考え方や、所得の再分配を貧しい人たちを救ってやるためといった考え方が批判的に扱われる。では「脱成長」や「縮減」を示すのかというと、そうでもない。経済的成長自体を否定するのではなく、経済的成長が必要なのであればそれは一手段として位置付けられる。

これまで取られてきたような対象者を絞った租税は抵抗感や痛税感を伴い、層ごとの分断を生むことも示されている(この租税抵抗の話は特に著者の一人の古市氏のご専門だろうか)。

義務教育の例を出しながら、「必要」であるものは所得を問わずに現物支給、つまり無償化されていることが説明されている。要は、一定、税率をあげる一方で、必要原理に従って現物支給することで、少なくとも「必要」は国民全員が満たされている状態を作ることが最優先されるということだろう。

「競争社会」の方が望ましいという意見と、経済格差は望ましくないとする意見とは、必ずしも矛盾しない可能性さえある。つまり、格差が必要なのは中高所得層の間であって、中低所得層の間ではないのである。

この表現からすると、「必要」を全員が満たされて低所得層が底上げされるような形で中所得層化した上で、そこから先は競争原理によって高所得層を目指すような動きがあること自体は否定しないという意味だろう。

貧しい人たちや中間層が成長の原動力となり、それによって富裕層をも包み込む。あえていうなら、「トリクルダウン」効果ならぬ、「エンブレース(embrace)」効果の発生である。

富裕層を敵視するのでは無く(あるいは貧困層を敵視するのでも無く)、また、成長を否定するのでは無く(あるいは成長のみを目的とするのでも無く)、というスタンスはとても読ませるものだった。

基準によって分断を促進する現金支給ではなく、基準無く全員に必要なサービスが現物支給されるという仕組み。現実に、日本版共存型再分配モデルを作ることになった場合、「必要」なサービスのリストはどのようなもので、それを実現するためにはどれだけの税が必要なのか、そしてその再分配モデルは富裕層も納得の行くものなのか、といったあたりが素人的には気になるところ。


ちょうど、この本を読み終えた日に、子ども食堂をやっている方から次のような悩みを聞いた。

学区のどの子でも来られるようにしているけれども、「本当に来てもらいたい子」が来てくれているかどうかがわからない。どうしたら、「本当に来てもらいたい子」に来てもらえるだろうか。

子ども食堂のチラシは自治会を通じて配布している。自治会に入っていない家の子には届いていないかもしれない。親が自治会に入るとか、きちんとしてくれてないと。結局、親の責任なのではないだろうか。

一つ目の話と二つ目の話はけっこう内容が異なる。一つ目の話で気になるのはそもそも「本当に来てもらいたい子」がどういう子どもなのかだ。これは悩むよりも自分たちに問いかけなくてはいけない。

ちなみに、月に一度とか年に数回の子ども食堂では貧困家庭の児童に栄養を摂らせたいという趣旨においてはほとんど効果が無いので、そのあたりも「本当に来てもらいたい子」像と活動内容との調整は重要だ。

「誰でも全員が来られますよ」と門戸を開いておく方法は貴重だし、いいような気がする。ちょうどこの本を読んだ後だったので、これは対象者を絞ってサービスを提供することによる「分断社会」化を防ぐということにも繋がるのか、と思った。

二つ目の「親の責任」は、なるほど確かに、そうなのかもしれない。ただ、一つには社会と繋がることができないような親もいて、しかしその親も社会の一員として手を差し伸べられる必要がある、ということは言えるだろう。これは現場ではしばしば「きれいごと」だと言われるけど(「先生もいっぺん会ってみたらええんや」くらいは平気で言われる)。

もう一つは、「親の責任」であるということでもって、社会から切り捨てることによって「社会」側にどのような効用があるかという現実的なことも考えた方が良いようにも思う(自己責任論は感情的には理解できなくない場合も多いが、戦略的には僕はほとんど理解できない)。

さて、僕は「分断社会を終わらせる」ためにどのような貢献を研究者としてできるだろう。

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